Writing: essay

Keiko Sasaoka provided a picture and wrote a short essay for Marebito theater company’s “Performing Fukushima”.

PDF is here: marebito-sasaoka

Written and Directed by marebito theater company
November 17th — November 20th
http://www.festival-tokyo.jp/16/en/program/performing_fukushima/


 

福島になる
笹岡啓子

本作のメインビジュアルに決まった写真を見て、松田正隆は「ユートピアみたい」だと言った。「理想郷」と訳されたイメージの方が現在では強いかもしれないが、語源的な「ユートピア」とは「すばらしく良い場所だが、どこにもない場所」だという。松田さんはおそらく後者の意味でつぶやいたのだと思う。

もちろんここに写っているのは「どこにもない場所」ではない。福島県の浜通りに位置するこの町は、阿武隈山地の美しい山並みを一望でき、本州有数の鮭が遡上する川を澄んだ水が流れる。傍目からはたしかに「すばらしく良い場所」のようにも映る。震災を境に明らかに変わってしまった景色は、避難指示により人の姿が消えたこと、町の沿岸部一帯に除染土が積み上げられたことだろう。この土地のことをかつて暮らしていた住民が、みな、「すばらしく良い場所」だと思っていたかどうかは私にはわからない。せめて、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、ときめいたり、息をつまらせたりしながら送るそれぞれの暮らしがあった震災以前を、平凡にでも想像をしてみるとき、外部からもたらされた出来事によって、暮らしていた土地から離され、除染のためにその場所の表土まで均一に削り去られてしまった事実は、彼らにとってあまりにも異様な未来だ。そう考えるとき、ここは「どこでもない場所」になってしまった、と言ってしまうのは、はばかられなければならないことだろうか。集められ、積み上げられ、不確定な「仮置場」を転々とする除染土こそがかつての「この場所」の表土なのだから。

今夏、私にある取材依頼があった。オバマ米大統領の広島訪問に際して、広島に関する作品を制作している私へコメントを求めたいという記者はこう続けた。「親族に被爆された方はいますか」「その方は被爆者手帳を持っていますか」。新聞なのでいちおう、といった記者の、そっけない聞き方はそのまま「手帳を持っていなければ原爆体験があったとしても被爆者ではない」と受け取れた。『ヒロシマ・モナムール』以後、体験者に対して非体験者が抱え持つ、その体験を決して共有できないという圧倒的なふるえのなかで、それでもなお、その傍らに立つことを考えるとき、「被爆者」とは制度であるという前提を無碍なく突きつけられた私はぺしゃんと一蹴されたように感じた。しかし一方で、制度によって囲い込まれた「被爆者」の主体性を回復し、さらに言えば、私たち自身が「被爆者」という主体性を獲得することがありうるとする直野章子や東琢磨といった人たちの思考がいま広島で起こり始めていることに私は励まされている。

「がんばろう、つながろう、福島」。東日本大震災以後、そう呼びかけるとき、あなたはどこかほっとした気持ちを抱いたことはなかっただろうか。「フクシマ」と呼びかけることで彼らを「当事者」という壇上へ囲い込み、自分たちは無傷な観客席を獲得していたのではなかっただろうか。

かつて松田さんと制作した広島を舞台にした作品『PARK CITY』(2009)でのモチーフのひとつには「見えない都市」(カルヴィーノ)があった。私たちはそれぞれに見えにくい存在や聞こえづらい声に注意を払ってきたのだと思う。演劇は出来事を媒介するメディアである、と松田正隆はいう。写真も、そして写真家自身もまたメディアである、と私は思う。こぼれ落ちたり、かき消されたりする直前の存在を、すっとすくっては、見えにくいまま、聞こえづらいまま、まどろっこしいままに提示する。鮮明にしたり、ボリュームをあげたり、流暢に語らせたりはしない。そうやって、松田正隆は長崎に、広島に、福島に憑依されたいと望んでいる。

これから幕が開く「福島を上演する」の「福島」とは、いったい何を指しているのだろう。当事者/非当事者、被災者/非被災者といった二項対立でのナイーブな会話は聞こえてこないはずだ。覚悟しよう。あなたも私も、誰もが、もはや無傷ではいられないのだから。4日間の公演で交わされる星の数ほどの対話や声に耳を澄ますとき、たとえどんなに冷たく突き放されるような応答であったとしても、それらは他の誰でもない、あなた自身を照らし、あなた自身を映し出す星座を成すはずだ。それを引き受けるとき、あなたが、「福島」になる。

*笹岡啓子「福島になる」、マレビトの会公演「福島を上演する」公演パンフレット、フェスティバル・トーキョー、2016年