An interview by Eiji Kobayashi

 

笹岡啓子 “Difference3.11”
別の場所や別の時間で何度でも甦る写真

 

インタビュー・文=小林英治
2013.12.17

 


東日本大震災をきっかけに被災地を訪れて写真を撮りつづけ、その変化を記録し続けている写真家がいる。広島出身の笹岡啓子は、2011月4月から時間があれば三陸沿岸や福島へ撮影に出かけ、小冊子『Remembrance』を発行し、定期的にギャラリーで展示を行ってきた。「いままで写真を撮ってきて、見たように写ったことは一度もない。もちろん、それを望んでもいない」(『Remembrance 1』)―――彼女の写真はどれも少し引いた距離から目の前の風景を切り取るが、そこには起こった出来事の瞬間だけではなく、その前後の長い時間までもが写り込んでいるように見える。何度も足を運び、何度も写真を見返しながら、彼女が考え見つめてきたものとは何か。

 

――8頁の小冊子『Remembrance』のシリーズを発行されたのは、2012年2月にニコンサロンの連続企画展「Remembrance 3.11」に参加されたことがきかっけですね。

笹岡 そうです。最初は発表できるか、作品になるのかもわからずに撮っていたんですが、震災から1年が経ってニコンさんの企画に声を掛けていただきました。その時、企画全体のタイトルになった「Remembrance」という言葉が単純に記憶ということだけではなく、「思い出すことが現在を作りだす」と聞いて、つねに思い出す作業を自分でやるにはどうしたら良いか考えて、印刷物にして残すということを始めました。そして冊子のタイトルにも「Remembrance」を借りました。

――最初に被災地を訪れたのは2011年の4月ということですが、その時はまず現地に行って見てみたいという気持ちがあったのでしょうか。

笹岡 震災直後は情報が氾濫していましたよね。ネットに動画や写真もすごく出てくるのですが、情報が多すぎて具体的なことが見えてきませんでした。その情報も偏っているような気もして、自分の眼で見てみたいと思いました。

――最初に撮影したのは岩手県の大槌町ですね。釜石に行かれて、地元出身の方から「隣の大槌町はもっとひどい。広島に落ちた原爆が落ちたみたいだ」と聞き、広島出身である笹岡さんはその表現に驚いて向かったと冊子に書かれています。

笹岡 最初に被災地に入ったのはもう少し北の田野畑村というところでした。そこも釜石も地震と津波で建物が大きく壊れていてショックでしたが、入り組んだ地形のためか、全体像がつかめなかったんです。歩いているすぐ傍らで倒壊した建物が次々と迫ってくるような状況が、逆に映画や作り物のようにさえ感じられて、現実感が持てませんでした。その後行った大槌も一面瓦礫に覆われていたんですが、もう少し広い範囲の平野部でもあったので、地形的に引いて全体を見ることができた。はっとしました。簡単に受けとめることはできないんですけど、凄いことになっている状況をようやく目の前のこととして見ることができたというか。そこで初めてシャッターを切りました。その時から2、3カ月に1度は撮影に出かけ、三陸海岸から原発の災禍に見舞われた阿武隈山地へも撮影地を拡げていきました。

――それは撮りたいという写真家としての欲望もあったのでしょうか。

笹岡 どうでしょう……。写真を撮りたいというよりは、撮っておかなきゃというようにだんだん思うようになっていきました。被災地の様子も、最初は救援や捜索活動と同時に、自衛隊がすごい勢いで瓦礫を片づけていって、それから放っておかれているような、状態の変わらない時期がありました。今年に入ってからは一斉に防潮堤や港の工事が始まり、また一気に風景が変わっていきました。もちろん地域によってその進度は様々ですが、そういうふうに変わっていく時にその場所に自分がいるんだったら、撮っておこうと。

――今回の展示も含めて定期的に行なっている展示のタイトルは「Difference 3.11」です。この言葉にもさまざまな意味が含まれていますね。

笹岡 震災によってあらわになった元々の地形の違い、震災の後に複雑に変化していくこと、津波の地域と原発の事故の被害の違い、見えている被害と見えていない被害。そういったさまざまな差異を見続けていくということですね。

――2年半で41冊になった冊子の最後の号は、楢葉の除染作業の光景が写っています。

笹岡 「除染」という言葉を耳にしたのは2年半前が最初でした。わりと早い段階で飯館などでのモデル事業を見て、こんな遅々とした作業で広いエリアをやっていけるのかと思いましたが、今年の10月に楢葉町へ行くと、除染した土の仮置き場が確保できたということで一斉に始まっていました。ゼネコンが請負っているので勢いはすごいのですが、服装も初期の頃のような防護服は着ていなくて、普通の土木工事や草刈りをしているような光景でした。その見えている景色とやっていることの内容とにギャップをとても感じましたね。何でこうなったんだっけ? とふとわからなくなるような。

 

複複数の時間を見ることができる写真

 

――笹岡さんの写真は、たとえば「Fishing」(*)などの他のシリーズでもそうですが、対象から少し距離をおいて全体を捉えるような写真です。出来事そのものだけでなく、その場所の地形や地表の微細な肌理といったものにも関心があるようです。

笹岡 そうですね。どうしても自然が入ってくる場所を撮っているので、地形とか地勢や植生というのは写真のひとつの要素になっていくので、気になります。

――『Remembrance』ではどの写真も基本的な構図は似ているので、逆に細部が異なっていることが見えるというか、量が増えるほど1枚ごとの写真に厚みが出てきています。

笹岡 例えば目の前に大きな瓦礫があったとして、その瓦礫に近寄って撮るのではなく、どういう場所や地勢でどういう状況にあるのかというところまで含めて撮りたいんです。それに、東北に直接関わりがなかった私が行って、これは悲惨だとか興味を惹かれたとか、自分の方に引き寄せて撮ると間違ってしまうのではないかという気持ちもあります。写真になって初めて分かることがたくさんあります。だからできるだけ周囲も含めた、たくさんの要素、細部を写真に取り込みたいし、展示する時はそのひとつひとつを発見できるように大きくプリントにしたいです。

――そうやって撮影した写真は何度も見返すと思うのですが、撮ってから選ぶまではどのようなプロセスですか?

笹岡 東京に帰ってきて一度見て、ちょっと時間をおいてまた見て、選んで、またちょっと置いて選び直してという繰り返しの作業ですね。同時に冊子を作ることまでがセットになっていて、これを作ってまた見えることもあるし、おっしゃるように量が増えることで見えてくることもあります。

――笹岡さんの写真には、目の前の一瞬ではなくもっと長い時間が写っているように思います。

笹岡 そういう写真になっていたら嬉しいですね。必然的に自然というずっと昔から積み重なってそこにあるものと、現在のもの、今のそこにある状況と、実際に経てきた時間が異なるものが写っているので、その土地の過去や現在、そしてその後の未来まで複数の時間が見れると良いなと思っています。

写真は、また別の場所や別の時間にフッと何度でも甦ってくるものだと思うので、私の写真もどこかの誰かがたまたま手にした時に拒絶されるものではなく、出会える写真だったら良いなと。

特にこの地域のことに関しては、撮ったものを撮らなかったことにしてはいけないなという気がしていて、写真が残って欲しいし、遠くまで届いて欲しいと思っています。そういう意味では、無理ですけど、過去の人にも見てもらいたいという気持ちもあります。

――今後取り組みたいテーマはありますか?

笹岡 冊子の発行は今回で最後ですが、まだ被災地の撮影はしばらく続けるつもりです。それから、今は何かが起こった後の復興の過程や、復興に巻き込まれていくものや排除されていくものが気になっているので、広島をまた何らかの形で撮りたいなと思いはじめています。

――それは広島も同じように復興の過程を経た街だからでしょうか。

笹岡 そうですね。広島は街の真ん中に平和公園があって、そこを中心に成り立っている都市です。当たり前のようですけど、それは1945年の8月6日の出来事の後に、平和都市として復興すると決めたからなったことで、その成り立ちが実はすごく奇妙なことだったんじゃないかという違和感があって、以前『Park City』という作品をつくりました。

もちろんその時に原爆投下のことは考えていましたが、原発のことは自分では意識にありませんでした。でも今回の震災で原発事故が起こって、かつて広島が平和都市として復興していく過程で「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」と叫んでいる間に、いつのまにか「核の平和利用」という原発推進が国の方針になっていったんじゃなかと。

直接つながっているわけではなくても、平和都市として復興したということが、本当に正しかったのかどうか。少なくともその過程で排除されたり隠されたりしてきたものがたくさんあって、東北の復興でもそういうことがこれから起こっていくはずです。とても難しい問題なのでまだ自分でも模索中ですが、そういったことを今、改めて考えています。

(*)2001年から12年にかけて、《習作》《限界》《水域》《cape》とタイトルを変えながら、北海道、青森、秋田、房総半島、三浦半島、紀伊半島、沖縄本島、三宅島など、釣り人の後を追いながら日本各地の海岸線を撮影したシリーズ。

 

*以上は《STUDIO VOICE ONLINE》にて2013年12月に掲載されたインタヴューからの転載です。