編集後記
広島平和記念資料館に入ってすぐ、東館展示室中央にひときわ大きく引き伸ばされた松重美人の1枚目の写真がある。神殿のような立派なフレーミングをほどこされた写真の前で、海外からの旅行者や親子連れが立ち尽くしたり、しゃがみ込んだりしながら、御幸橋での惨状を見つめている。本館と東館をつなぐ渡り廊下を進むと、薄暗い照明に替わり、キノコ雲の写真に続いて松重の2枚目の写真がこちらも大きなパネルで展示されている。廊下を走ってはしゃいで入ってきた修学旅行生らが急に怯えたように声をあげて写真の前で身を寄せ合う。不思議とそれは、御幸橋で身を寄せ合う写真のなかの彼や彼女の姿勢と重なる。肩を寄せた恰好のまま、続く闇と炎に演出された通路を抜けると、被爆を再現した人形が待っている。
私はこの資料館内を撮影することを数年間、繰り返していた。こうした展示順路のくだりを何度となく行ったり来たりするなかで、松重美人の御幸橋での2枚の写真と、それを眺める人たちの佇まいにいつもどこか惹きつけられた。慣れ親しんだためかもしれないが、改装にともない、まもなく展示がリニューアルされることには少しさみしさもある。
特集タイトルに「爆心地の写真」と掲げながら、掲載する写真を松重美人の5枚に限ったのは、たくさんの原爆写真を見ることが目的ではないからだ。たった5枚の写真を「もう一度、そして何度か、何度も」見ることに重きをおきたかった。
松重以外の広島原爆写真の撮影者56名の詳細は、西本雅実氏の論考に付された別表を参照してほしい。『アサヒグラフ』1952年8月6日号、「原爆被害の初公開」で巻頭に掲載された撮影者無記名の写真が、尾糠政美によるものであることをあらためて記しておきたい。写真の多くは広島平和記念資料館のデータベースをはじめ、本誌各稿であげた写真集や文献で見ることができる。
本誌の制作にあたっては著者をはじめ、多くの方々にお力添えいただいた。とくに著者のおひとりでもある東琢磨氏には、広島調査のたびにご同行いただき、ご実家にほど近い松重美人の自宅や峠三吉の生家をはじめ、東京からはじめて広島を訪れる著者やメンバーを連れた街歩きを的確に導いてくださった。中国新聞社の道面雅量氏には大本営跡である広島城周辺を、権鉉基氏には基町アパート一帯を詳細にご案内いただいた。幾度もの問い合わせに快く関連資料を示してくださったのは広島平和記念資料館学芸課の下村真里氏である。広島県立図書館のご厚意により『LIVING HIROSHIMA』撮影密着帳の原本閲覧が叶った。普段は閲覧用に精確な複製を作り、原本は慎重に保存されているものである。また吉田初三郎の原爆鳥瞰図収録については、ご子息である吉田種房氏と八戸クリニック街かどミュージアム研究員の小倉学氏による原本の提供および関連文献のご教示がなければ実現し得なかった。そして西本雅実氏が原爆写真に写った人を知りうる限りは名指す姿勢、同時に氏が「松重さん」と名を呼ぶ時の言いようのない敬意と親しみの表出こそが、原爆写真を見る者の態度を教えてくださったように思う。(笹岡啓子)
*笹岡啓子(編集責任)『photographers’ gallery press no.12:爆心地の写真 1945-1952』2014年11月、p. 187